すこしだけ欠けたピアノの音色

競技プログラミング、始めました。

高熱を出しながら考えていたこと - 少しだけSFっぽいかもしれないお話

突然ですが、人類最大の発明は何かと聞かれたら、あなたは何を挙げるでしょうか。

蒸気機関、電気、あるいは農耕…様々な答えが考えられるでしょう。

 

それら全て、正解なんだと思います。

ですが僕が選ぶとしたら迷いなくこう答えます。

それは「文字」であると。

 

 

この3日間弱、新型コロナウイルスのワクチンの副反応なのか、

あるいは単に体調を崩したのか、

一時は40度近い高熱にうなされていました。

ほぼ何もできずに過ごしていたわけですが、

それでも意識はある以上、どうしても何かは考えてしまうものです。

(もちろん半分くらいの時間はそんな余裕もなくただただ苦しんでいましたが。)

 

深く鋭い思考は、出来そうもありません。

しかし飛び石の上を渡るような、

ふわふわとした軽い思考には、むしろ適していたかもしれません。

これから書くのは、裏付けなど全くとっていない、

そんな発散した思考を書き連ねた空想のお話です。

 

 

さて、なぜ「文字」を人類最大の発明だと思うのか。

それは、人類が寿命という制約を打ち破る一つの手段であったと思うからです。

我々が享受する現代の科学文明は、1人の天才によって築かれたものでも、

一時代で築かれたものでもありません。

アインシュタインほどの天才でさえ、

ニュートンやマクスウェルの架けたはしごの上からでなければ

相対性理論など一生涯のうちに思い至ることはなかったでしょう。

 

文字という力で世代間を繋ぎ、

そうして気の遠くなるような長い年月をかけて

積み上げられてきたのが現在の文明なのでしょう。

 

それでは、今後の人類文明の行く先はどうなるのでしょうか。

例えば全人類を絶滅させてしまうような核戦争の恐怖や、

地球環境そのものの持続可能性といった脆弱性

あるいはいつの日か訪れるかもしれない巨大隕石など、

「外なる脅威」はいくらでもあるように思えます。

 

ではそれらを全て乗り切ることができれば、

人類文明は順調に発展を続けられるのでしょうか。

僕が思うには、おそらくそうではありません。

かつて文字によって打ち破った寿命という制約が、

再び人類に歯止めをかける日が訪れるかもしれません。

 

人類文明は、現在でも急速な発展を続けています。

そして我々の世代は、過去のあらゆる世代によって架けられたはしごの上から

それをわずかでも伸ばして未来へとつなげるのでしょう。

このはしごこそが文字の力であり、

一から発明するというコストを破壊する人類の力の源泉です。

 

しかし、その力は、コストを0にしてくれる魔法の力ではないのです。

再発明するのとは比較にならないほど効率的ではありますが、

教育という時間のコストを払って我々ははしごの先端にたどり着きます。

では文明がもっと成長したら?

おそらくそれを理解するために要する時間は比例して増えていくでしょう。

 

例えばそれにまるまる一生分の時間がかかるようになったとしたら、

それ以上文明を積み上げることは困難になります。

ましてや、人間が生きるためには様々なものを消費します。

全人類平均して一人の人間が生きていけるだけの生産を確保しながら

はしごを登り切らなくてはいけないのです。

さもなければ、文明は縮小に転じるでしょう。

 

全員が登り切る必要はない?

確かにそうです。

しかし、全人類とまでは言いませんが、

大半の人間には8分目くらいまでは登ってもらわないといけないのです。

民主主義というトリガーの引かれた世界で、

大多数が科学を無価値だと思えば、それは容易に捨てられてしまうでしょう。

(仮にそのような局面が訪れるとしたら、

 民主主義という制度自体が民意によって投げ捨てられる方が早いかもしれません。)

 

 

つまり文明そのものの大きさが、

文字の力をもってしても人間に扱いきれる限界に達してしまったとき、

人類の発展は止まってしまうかもしれません。

 

それが嫌だとしたら、すぐに考えられる方法は2つでしょうか。

もちろんどちらも空想上のお話です。

1つは、寿命という制約を真に破壊すること、

つまり不老不死という人類積年の夢を実現することです。

もう1つは、教育にかかる時間を徹底的に破壊すること、

例えば人類文明のデータベースを脳にリンクさせてしまうように。

(もちろん、とてもとても嫌な方法であると思います。)

 

当然ながら、このどちらかが僕の生きているうちに実現することは

ほとんどあり得ないと言っていいように思います。

それでは、我々の世代は何もできないのか。

しかしそういわれると、それはちょっと違うのではないかとも思います。

 

例えば医療の発展によって、あるいは公衆衛生によって、

人類は寿命という制約を少しづつ緩めてきた過去があります。

まったく知らないで言いますが、

おそらく教育手法だって相当の研鑽を経て、

少しづつ効率よく進化してきているのではないでしょうか。

そうした地道な積み重ねは、いつか来る(かもしれない)

人類文明の臨界点を少しだけ遠ざけているのかもしれません。

 

そうして少しずつ限界を遠ざけ、

同時に少しずつ伸ばしていった叡智の先に、

未来の人類が真にこの問題を解決する日が訪れたなら。

それは紛れもなく、21世紀の人類にとっても大きな勲章になるのではないでしょうか。